スンミョンから突きつけられた現実の重みに打ちひしがれていた心に、恋人の言葉がじわりと沁みいって、アロの両の瞳が、夜目にも分かるほどに潤んだ。

彼女の心を慰めようとしている懸命さが痛いほどに伝わってきて、惑いのないジディの声の確かさに安心に似た温かさを感じて、目の奥がじんと熱くなる。

けれども彼女は、泣きはしなかった。
幼いころから、周りの大人に頼ることをせず、なんでも自分一人で解決してきたキム・アロは、本来なら容易に泣かない娘であるのだ。
 

  だけど。

  だけど、ジディさんと出会ってから、そして、ジディさんが王様と知ってから、私は泣くことが多くなった――。


そんなことが悔しくて、もとから人前で泣くことのなかった彼女は、特に恋人の前で涙をこぼすことをよしとしなかった。
目のふちをぎりぎりまで赤くして、だけれども、アロは涙をこぼさなかった。

代わりに、吐息ほどのかすれ声で
「はい」とだけ応えて、うなずいた。

真興(チヌン)王はそれに口元だけの微笑で応えた。


やわらかな棘(後編)


おそらく彼女は、これからもまだしばらく惑うだろう。
この先、心ない言葉に何度もぶつかり立ち止まり、悩むだろう。

王と自分の心だけをたのみに、この国の伝統や慣習やひとびとの目や言葉から自由になって、ただふたりの将来を見通していこうと思えるまでには、多くの困惑と困難と、おそらく傷心をも覚悟しなければならない。
そのたびに、アロは、こうして涙をこらえてしまうのだろう――。

「――馬鹿だな・・・」

スンミョン王女の言葉を受け、それゆえに心に迷いと痛みを生じて、ひとり泣いたのであろうアロの姿を思い、さらに、自分の前ではかたくなに涙を見せまいとする彼女の健気さに、心の奥がふいにきりりと痛んで、若き王はそう言うと、ぐいと彼女を引き寄せた。

真興王の力強い腕に守られるように抱きすくめられて、彼の胸の中でアロは目をつむった。
とくとくという彼の鼓動が、じかに響いてきた。

堀端の並木は彼らの抱擁を木陰にかくし、間遠に揺れる灯篭のともしびだけが王と恋人のひとつに重なった輪郭を淡く描いていた。

「馬鹿・・・」

なじるのでもなく、あざけりでもなく、真興王は彼の恋人に言った。

ふたりの間に横たわる厳然たる身分の問題に対してすでに心構えができている自分とは、アロの受け止め方は当然違うのだと。
今の彼女はただ、不安や苦しみとしてしか受け止められなくて当然だと。

 どうしてもっと早く気づいて心を配れなかったのか――

という自分自身への叱責の意味も含んでいた。

ただただ、やるせない思いのたけをこめて、つぶやいた。
そして、その言葉の語尾が消える前に、やさしいだけの口づけで、アロの唇をふさいだ。

「――馬鹿だ」

その「馬鹿」は、「いつでもそばにいる」の意味だ。

その「馬鹿」は、「ひとりで泣くな」の意味だ。

馬鹿、と、こぼすたびに、彼は彼女の唇に唇を落としていく。

最後にはとうとう、首を傾け深く重ねながら彼女の唇を開いて、じかに「・・・ばか」と言葉を割り込ませた。

―――何度かの口づけのあと、ようやく真興王は身を離し、

「わかったか?」

こつ、と額と額を合わせて、アロに問う。
秋の夜の空気の中に聞こえるその声は、限りなく甘かった。

互いの鼻先が軽く触れる。

「・・・だから」

続けてジディが言うと、しっとりと濡れた互いの唇に、かすかに吐息がかかった。

「今、聞きたいのは、身分のことでも伝統のことでもない。もちろんスンミョンの言葉などでもない――」

「・・・・・・」

「私が確かめたいのはただひとつ、おまえの気持ちだけだ」

「私の――」

「おまえはどう思っているのか、何を望んでいるのか・・・正直な思いを聞かせてくれ――」

「・・・・・・」

アロは、ためらいのそぶりを見せ口ごもり、彼の腕の中から抜け出て、半歩、身を引いた。
ふたりの間にすき間ができて、そこを秋の夜風がすぅっと通り抜けた。
頭上では並木の葉が、乾いた音を立てていた。

まっすぐなジディの視線から目を外し、なんども瞬きをして、アロはまだ惑い、迷っている。
懸命に言葉を探しながら、なんとか彼の問いに答えようとしていた。

彼女にとっては、それは王からの命(めい)に応えるのではなく、ただ、想いを寄せ合う相手へ伝えたい答えであるのだ。

アロは、意志の強さが表れる眉を寄せ、しばし自分の胸の中と向き合い、それからぽつりと話し始めた。

「・・・正直、私には想像ができません。私はこれまでの人生、ずっとアンジの娘、半人のアロとして生きてきました。語り部や針仕事をして日々の暮らしを重ね、これからは、父から学んだ医術をもって身を立てていくのだと思っていました」

「―――」

「それが――ジディさんと出会って、好きになって、こうしてふたりでいるようになって・・・けれど・・・けれど、あなたは――」

 王様だった・・・

その言葉は声にはならず、ただ、苦し気な吐息になってアロの唇から漏れ落ちただけだった。
ジディは、そっとアロの両手をとって、自分の手でそれを包んだ。

「頭では・・・無理なのだと分かっています。王女様から言われずとも――。身分の違いや、王様の負う宿命――」

「―――・・・」

「そのどれも、私にはどうしようもないものだと。私の生きる道とは遠く隔たった世界での話だと・・・よく知っています。理解しています。あるいは」


 あるいは、私さえ身を引けば、すべて丸く収まる話なのだとも。


アロは言いよどみ、再度、言葉を飲み込んだ。
なんども思いを巡らせて、いつも最後の考えがまとまる前に自分で打ち消してきた結論だった――。

言葉を切ってしまった彼女に、真興王は片手を伸ばし、だまって恋人の長い髪をなでた。
彼女なら、どのようなことを考えているか、自分の身をどのように処するのが妥当だと考えるか、おぼろげながら予想がつく。
しかし、真興王は、けっしてその道をとらせまいと、すでにそう決めている。

「出自について周囲から言われることには、子どものころから慣れています。慣れてはいますが・・・半人や賤民だからといって私や母を貶めるような言動は、ぜったいに許せませんし、許すつもりもありません」

「ああ・・・」

「私が、半人を理由になにかをあきらめたら、それは、母や父や、兄の人生をもふみにじることになるとも思っています」

「―――・・・」

そうしたアロのまっすぐさや強さになによりも惹かれている真興王は、言葉で応える代わりに、彼女の手を包む両手にかすかな力を込めた。

「賤民だから、半人だからという理由で、生活や人生をほかの誰かから蔑まされていいなんて、そんなの、おかしいわ」

それは、この国を統べる王と聖骨(ソンゴル)への痛烈な批判だ。
アロの率直な思いは、もしかしたらこの国の制度そのものへの強烈な反抗、反発とも言えるかもしれない。
しかし、当の神国君主は、彼女の言葉を黙って聞いていた。
反論もせず、弁解もせず、ただ受け止めていた。

それは、この先、真興王がたびたび彼の妃の言葉をもって、民の声のひとつとして受け止めていく姿を予感させた。

「けれども、そうした私の決心とはまったく別のところでしか、あなたとのこの先の関わりは考えることができない――そう理解しています」

「―――アロ」

じっと聞いていたジディの双眸が、この時ばかりはかすかな不安の色に揺れた。
もしや彼女の選択が、すでに互いの手を離すことにあるのではないかと、初めての懸念がのぼった。
アロは、彼の身じろぎを感じながらも、続ける。

いずれにしても今の自分の心を一度明らかにしなければ、彼と彼女はつぎの道を決められないのだと、アロは充分に理解していた。

「だから。この先をどうしたいかとは、私には言えません――私が考えられる範疇を超えていると思います」

「・・・・・・」

「ただ・・・ただ、私の気持ちを、そのまま言葉にしてもよいのなら――」

数瞬迷って、なんどか言いよどんでから、アロはためらいがちに続ける。

「・・・ああ」

キム・ジディはうなずき、アロの言葉を促した。

それをこそ、己は聞きたいのだと。
この先のふたりに対して決断するときに、もっとも大切にするべき基(もとい)が、それこそ、アロの想いであり、望みであるのだと。

  言ってくれ。
  なんのしがらみも気遣いもなく、ただ自分の気持ちだけを取り出して、それを形にした時、なにが見えるのか。
  最後に心の底からのぼってきて形になるのは、どういう感情なのか、言葉なのか。
  どうか、教えてくれ――

「あなたといられなくなるかもしれない、そう考えるだけで、私は・・・」

最後の大きなためらいを見せて、ここでアロは言葉を区切った。
若き王は辛抱強く、恋人の言葉の続きを待った。

「――私は、とてもつらいのです」

さきほど医務室で人知れず流した涙の理由(わけ)を、とうとう言葉にしてしまい、アロは力を落としたように息をつき、肩から力を抜いてかくりとうなだれた。

本当にそんなことを口にしていいのか、言葉にしていいのか。
もっと言うなら、そんな望みを抱いてすらいいのか分からないまま、けれども自分の心の内を見つめなおした時に見つけられた思いは、ただそれだけだった。

「あなたと、ずっと一緒にいたいと・・・思ってしまうのです」

アロの、その告白に、真興王はしばし呼吸を止めた。

彼女の言葉を、その意味するところを反芻し、それから、ほぅ、と小さく息をついて改めてアロの腰を抱き寄せ、彼女の首元に顔をうずめた。
瞳を閉じて、もう一度、短く息をつく。

キム・ジディの脳裏にこれまでのアロとのいきさつが巡った。

街かどで「語り部」である彼女の声を聞き、眠りに落ちたこと。
不審がる彼女をなだめすかして、”玉打閣(オクタガク)”で俗話を語ってもらい明かした一夜。
まったく気のない彼女に、なんとか意識してもらおうと、あれこれ話しかけては一蹴されていた日々。
ソヌに向ける笑顔の半分でもこちらに振り向けてもらいたいと、遠くから見つめるだけだった春の日の夕暮れ。

そのアロから、ようやく「あなたが好きです」と告げられた、夏の終わりの風の吹く高原。

そして今、彼女は、この身が神国の王であると知ってなお、彼女の家族の命すら脅かした王族のひとりであると知ってなお、真興(チヌン)でありジディであり、サムメクチョンである彼を、あきらめずに、ただひとりの相手として心に定めていると、そう告げてくれたのだった。

「アロ・・・」

万感の思いを込めて、真興王は彼女の耳元で彼女の名をささやき、顔を上げた。

「おまえのその言葉だけで、私にはもう、迷いはない・・・迷いだけではなく、恐れるものも何もない」

真興王はそう言って、その胸にアロを抱き寄せ、両腕でしっかりと抱きしめた。

「感謝している。今こうしてともにいることも、おまえの言葉も、その――心も――」

「・・・ジディさん」

王様、とは呼ばず、アロは、彼女の恋人としての彼の名を、彼の腕の中で呼んだ。
キム・ジディは、ぐ、と力を込めて、腕の中の彼女の肩を包み込む。

「かならず、おまえとともにいられる道を作るから――。これ以上、おまえを泣かせぬようにするから」

アロの全身に、彼の声が、言葉が直接響いてくる。

「だから、どうか、これまでと同じようにいてくれ。私の傍に――いつでも。いつまででも・・・」

はい、と言葉の代わりに、アロは王の腕の中で一度うなずいた。
恋人を腕に抱いて、両眼を閉じたまま、それから真興王は、ものやわらかに笑んだ。

「・・・おまえのその声で『変人さん』と呼ばれるのが、どうやら私はとても好きなのだ」

彼の穏やかな鼓動は、そのままアロを包み込み、彼女は恋人の決意と自分の本心を知ってようやく安堵の息をついた。

力強く抱き包む彼の両腕の温かさが、アロの胸の内にある小さな棘を、少しずつ溶かしてさえいくようだった。


(了)


身分違いの恋。

アロのためらいを一蹴する一本気な王様を書きたかったので。
何と言っても必死な片想いを経てきた分、王様の心はすでに固まっています。
当ブログでの王様は、いつもは子供っぽいですが(笑)、いざというときは頼りになる設定。アロを好きになり、彼女を守り抜くための心の度量を身に着けた感じ。

本当は、アロ自身もかなり強い子なんですけどね。
今回は意気消沈していて、すこし弱弱しかったかな・・・

ちょっとスンミョンを意地悪に書きすぎたかも。ごめんなさい。

・・・あれ?
でもこの話、プロポーズの前に、もうアロが嫁ぐ前提で話してますね王様は。フライングですね(笑)

じっさいの求婚話は、次回作です。
理詰めで怒涛のプロポーズになる予定。


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